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0 ≪K-氏のコラム → K氏のブログへ≫

長年のコラムをリニューアル致しました!
http://kradix.exblog.jp




    

kのプロフィール

1970年生まれ、15歳でサーフィンを初め、中学卒業と共に当時三苫にあったサーフショップ「SURF CITY」で働き始める。その後コンペティションに目覚め宮崎に移り住む。17歳からはプロを目指し千葉へ。千葉ではサーフショップで働きながら、プロアマなど多くのコンテストに出場した。そして24歳で福岡に戻り「RADIX 福岡」をオープン。
福岡での沢山のサーフイベントも開催しています♪







- 主なリザルト -
■1991
 一宮町長杯 スペシャル4位■1994 京都八町浜プロトライアルSF 
■1995・1997 スリスジャンキーカップ スペシャル優勝
■1995・1998・1999 福岡CUP スペシャル優勝1996 サーファーガールCUP スペシャル優勝
1996・1998・2000 立神杯 スペシャル優勝■1997 インサイドボールマスターズ スペシャル優勝
■1996 九州オープン スペシャル 3位1997 九州ユニオンCUP スペシャル3位 
2000 九州ユニオンCUP スペシャル優勝2001 九州オープン スペシャル3位
■2002 九州オープン スペシャル2位■2004 九州オープン スペシャル4位 
1997 西日本選手権 シニア4位■2004 全日本選手権 支部長2位
2005 全日本選手権 マスター2位
NSA 1級


≪K氏のサーフィンヒストリー♪≫
 お暇があれば御覧ください
 (H.17 12月3日 最終更新


  K-surfin histor #1
わたくしがサーフィンを始めたきっかけはかなり変わっている
14歳で三苫へ引っ越して、中学生だったKは毎日暇であった
そう季節は夏、何かやることはないかな〜と母と雑談してたところ
バイタリティーのある母は「あんた海近いんだしジュースでも売れば」っとKに言いました
そうだな〜 たしかに三苫には海の家は無いし・・・
海水浴場でも無いのに穴場として人はいっぱだし・・・

じゃあやってみようと思い早速準備!
まずは仕入れ、近くにある「マルキョウ」で一缶50円ジュースを探す
は考えたんですね〜 よくある海料金では素人のからは買ってもらえないと
だから値段はなんと!!100円 しかし後に言われたのですが
「ジュースの種類がマイナーね、コーラとかないの」そう種類は・・・
コーラーでは無くサイダー。ジョージアでは無くUCC珈琲
そんな感じでやはり50円ですから、有名なジュースは買えなかったのです(>。<)
だって当時はコーラは78円くらい!?(マルキョウ価格)とてもの商売にはなりません
商品を入れるのは、大きいクーラーBOX
氷は夕方からボールに水を溜め、冷凍庫で製作。
そうだ看板! カレンダーの裏面を張り合わせ絵具で赤文字にて「ジュース100円」
しかし水性で何度か雨で字が流れました・・・ 白地に赤文字だから流れると怖い(+。+。)
そしていよいよデビュー! ラジカセにBGMも準備、ビーチパラソルも揃え
三苫海岸での「K商店」がオープンしたのです!

つづく・・・




  K-surfin histor #2
無事「K商店」はオープンしました。そして売れ行きは・・・・
これが何と、超繁盛したのです(^0^)
毎日完売! 売上は¥3,000〜5000が続きました。
理由は、三苫は丘まで上がるのが大変で簡単に飲み物をゲットできず
そしてなにより100円ですからやはり買うのです!
Kの狙いは的中し、中学生だというのに毎日お金が・・・
そして運命的な日々が・・・毎日波があろうと無かろうといるサーファーの方々と知り合いになりました。
特に現在でも仲良くして頂いてるローカルの「マーボー」さんとは毎日会うように(〃^∇^)
そのメンバーの中の一人が、ある時ジュースを買おうとK商店に来たのですが
その日は海へお金を持ってきておらず、K商店はニコニコ現金払いがモットーでして
閉店後にでも「近くのサーフショップまでお金を取りに来て」
と言ってジュースを持ってその場を立ち去って行きました。
当時子供のKから見ると、大人のサーファー達はなかなか手強く見え\(◎o◎)/
しぶしぶ夕方に集金に行くことになったK・・・(-。-*)
そこで初めてサーフショップ「SURF CITY」へ足を踏み入れたのでありました

つづく・・・




  K-surfin histor #3
サーフショップ『SURF CITY』は当時でもローカルショップとして有名だった
オーナー自らシェープし、MADE IN MITOMAのサーフボードは海にいけば沢山
近くには『HAWAIAN JUICE』と言うお店もあったな・・・ そこには今や日本でも有名な
シューズデザイナー『ミハラ ヤスヒロ』も兄弟で通っていた。
さて集金に出向いたKですが、恐る恐るドアを開けると・・・
そこは案の状サーファーの溜まり場(-"-;) ウッ
一瞬怯んだが、そこは15歳でもお店の店主だったK
「海でのジュース代を集金に来ました」っと目当てのサーファーに催促
たしか・・・¥300 セコイが当時50円で仕入れをしていたKには300円は大切でした(^▽^)
サーファーの難所(当時のサーファーはヤンキー上がりな方も多く)を無事クリアし
集金を終え帰ろうとしたのですが、そのショップスタッフだったお兄さんに呼び止められ
「ビーチサンダルでも買っていけば」と言われました。
たしかに当時のKの格好はあまり褒められたものではなかった。
それに・・・あのサーファーが履いてるビーサンは色も鮮やかでカッコ良かったし(∇^〃)
じゃあ買いますと売上袋からお金を取り出し、今と同じ価格¥900で買い
早速履いてみたのです。 そうするとお兄さん(名前はクロッチ君、かなりの天然パーマでナチュラルアフロ)
が「おおーお前もこれでサーファーやん」とKに一声、奥からも怖いお兄さん達が
「おおサーファーやん」「サーファーになったやん」の声が連呼・・・
(当時Kは三苫のジュース売りとしてサーファーにも有名であった)
気を良くしたKは\(^o^)/ すっかりその気
そして「お前サーフィンやれば」と言われたのです。
普通中学生がサーフィンなんて簡単には出来ません。家も裕福では無かったしお金が・・
しかしKの売上袋には\(\。\) そう毎日稼いだまとまったお金がありました。
「じゃあー いくらぐらいで揃えられるのですか?」そう質問したK
子供ながらもお金は持ってるぞっと言わんばかりの態度だったかも
「ボードは3万くらいから、後ウエットは中古を¥500」お兄さんはそう言いました。
その金額は今のKの財布には余裕の予算!
かくして道具を揃え、いよいよサーフィンを始めることになったのです。

つづく・・・・・




  K-surfin histor #4
さあ、いよいよサーフィンの道具がそろったK
初めてのサーフィンはショップ集合。もちろん『SURF CITY』
三苫でのデビューだった、初回の先生は「スパイダー」あだ名
いつも三苫海岸にいて、☆模様のビキニパンツを履いた180cmを超える
黒人ルックなお兄さん。 見た目はかなり怖かったかな_(・。・;)ゞ
その時の波はヒザ〜モモの面ツル!
初心者には最高のコンデションで教えてもらったK、
そのおかげで初日でテイクオフもこなし、かなり楽しい初乗りであった。
しかし二回目は長崎の黒崎ポイント。 初回で立てたことに自信を持ち
挑んだリーフポイントだったが・・・ でかいセットをくらい死ぬほどもまれ
あげくの果てには一緒に連れて行ってくれた先輩にも、「お前邪魔やけんあがれ」
などと言われ(>。<") そこで「やっぱやめよう」と一度は決意したKでありました。

その頃の福岡でのサーフィンシーンを説明しよう。
時代は80年代中盤、今より西東の図式が色濃く出ており
各地にはサーフィンチームがあった。 西には総勢70名近くのメンバーがいる
『バットボーイズ 通称BADZ バッヅ』 東には古くからの『ホットサンド』
そして『ハイジャッカーズ』『フリッパーズ』など時代背景を物語るようなチーム名(☆。☆)
まあその時代ですから、当然大半は元・・・・○○族な方々も多く
ファッションはサーファーなのですが、マインドは縦社会なことばかり・・
正直怖かったです。 そしてチームにはお約束だったのがステッカーとチームジャンバー
『BADZ』はカーキ、『ハイジャッカーズ』は黒、『フリッパーズ』は迷彩とおそろいのMA-1
嘘みたい話ですがそんな時代でした。車はほとんどがハッチバックかカローラバン
その当時は今みたいにオシャレなワゴンやミニバンなんて無かったのです。

そして何回か波乗りをこなし、少しまともに滑れるようになったKでしたが
ある時の夜に『SURF CITY』への呼び出し・・・ 嫌な予感でしたが
行けばそこには『フリッパーズ』の面々がずらり
まさか・・・ヤキでも入れられるのかと\(・。\)
そこで当時のリーダーだったお方から、「お前をメンバーに入れる事をみんなで決めた」
そう言われたのであります。 お約束の当時憧れだったイルカの巨大ステッカーを受け取り
Kはとうとう、当時東では生きが良かった若手サーフィンチーム
『フリッパーズ』に入ったのでありました。

しかし・・・ これが後に・・・ 

つづく・・・・・・・・




  K-surfin histor #5
ところで・・『K商店』はどうなったかと言いますと
サーフィンを始めてからは早々店閉まい!
まあ忙しくなったのと、夏の終わりが近づきそろそろ潮時かなと思いまして。
しかし、その年や翌年などもK商店の真似をした店が出没していましたね
中には女の子二人でジャンケンして勝ったら¥100など・・・

さてこの『フリッパーズ』、兄貴分的なチームには『ハイジャッカーズ』
この二つのチームが当時東では勢いがよかった。
そのチームに入れてもらったKは、その日からは試練が待っておりました
先輩方に何か買って来いと言われれば即買出しに
その買出しのセンス(お菓子の中身)が悪いと説教・・・
ショップから帰る時は、先輩達に「よし!」っと言われるまで「お疲れ様」の言い方など
とにかく厳しかった(>。<") 海の中では超デカイリーフポイントで
真ん中に挟まれてセットが来たら「GOO!」当然パーリング
などなど言い切れないほどの厳しいチーム活動でありました。
しかし悪いことばかりではなかった、いつもお財布はからっぽでもご飯にありつけ
何処に行くにも交通費もタダ! でも指定席はバンの荷台だったけど・・・
それに毎日波が良い所へ連れてってもらえたし、夜は最高な日々が続いた。
当時のサーファーはよくサーフィンしそしてよく遊んだ。
いわゆるディスコ『ラジオシティー』『キャッツ』『シニフェ』たしかそんな名前のディスコが
流行っていました。 サーファーズパーティーなども頻繁に行われており
秋にもなると、なんと何処もフォーマルな装いがお決まりで
サーファーもスーツ着用で夜は出かけたものです。 
そんな感じでしたから、中学生だったKは刺激的な毎日でありました。
学校が終わると速攻海へ! そして夜は街へ・・ とても中学生の遊び方ではなかった
毎日おごりだったし、洋服はオシャレな先輩達から頂ける。
こんな生活をしていましたらから学校へも・・・ いかなくなったんですよね〜

そして秋になり、福岡はコンテストシーズンに入ってきました。
当時のサーフィンチームにはコンテスト活動は絶対!
みんなで車にキャリアを装着し、全員でコンテストに出かける
これが秋からのチーム活動です。
いよいよKも一生に大きな影響を及ぼすコンテスト活動がスタートしたのでありました。

つづく・・・




  K-surfin histor #6
当時から福岡のコンテストシーン(80年代中盤)は盛んだった。
9月後半になれば毎週どこかで大会が行われていたような記憶がある。
まあ延期も多かったのでそう感じたのかもしれません。
なんせ今のようにネットやらI-MODEなどは無かったから大変
毎日新聞の天気図は見ないといけないし、電話の177もチェック。
特にリアルに説明してくれる18:50からのNHKの天気予報は外せなかった。
そしてショップに顔を出しておかないと情報収集もままならず
良い場所でサーフィンするには、自分の足で動かなければ無理だったのです。

Kが最初に出場した大会は西で行われたコンテストだった。
エントリー費は¥1500、その頃の大会は当日エントリーがお約束なので
集合しても大会が始まるまではいつも時間が掛かっていました。
でも当時はどこもそんなコンテストばかり、ジャッジもその場しのぎ
資格なんて無かったから基準もあいまい・・・私情もミエミエの場合も多く
でも何かフレンドリーで笑いも絶えなかったような気がします。
今思えば良き時代でありました。
さてKの結果は・・・なんせ始めて3ヶ月後に大会出場したものですから
ファーストコンテストは予選で一本パーリングして終わった(>o<) 
その年は全て一番下のCクラスで出場し、決勝まではいけなかった。
もちろん帰ってくればチームでの反省会。 
なんでダメだったかや次での抱負などを言わされたものです。
やはり当時は西の「BADZ」が圧倒的に強かった。
東も健闘していましたが、今の酒井プロもまだオープンクラスだったし
後は福岡の学生チャンピオンだった『岩永さん』や北九州の『草場ジュニア』
高校生でアイドル並みの人気だった『マーボーさん』などが活躍してたかな〜
あっ忘れてはいけない今やカリスマデザイナー『三原ヒデ』もたしか全日本で
ボーイズ6位になっていました。
チームカラーも西は華やか、東は根性みたいなノリがあったような記憶も・・今もかな?

さあコンテスト初年度は惨敗に終わったK
季節も冬に入り、寒さが増す時期になってきました。
スプリングしか持っていなかったKは、冬用のウエットが必要でした。
もうジュース売りをしてなかったKは普通の中学生の金銭感覚に戻っており
とてもショップ取り扱いのウエットには手が出ませんでした。
なんせ海に行く時は持ち金¥200 これは『かっぱ海老せん』と『HOT珈琲』
なぜ『かっぱ海老せん』かと言うと、量が多くてお腹に溜まるからです。
珈琲は一ラウンドしての寒さを和げる必需品。子供ながらにこれが楽しみでありました。
いつも自転車で行動を共にしていた『マーボーさん』とはよく海に行きました。
そのマーボーさんが、知り合いの潜水服屋さんでウエットを安く作れるとの情報をキャッチし
早速二人で作りに行くことになり、なんとデザインも自由! Kは初めてのフルスーツを
自分のデザインで作ることが出来、値段も3万円だった。
支払いはお正月のお年玉払いを了承して頂き、無事冬用のウエットスーツを手にしたのです(^0^)ノ
品質が良かったかどうかは・・・・まあ当時のKには満足のいく品物でした。

こうして冬も楽しく過ごせるようになり、大満足のKでありましたが
ある冬の夜、先輩と例のごとく遊びに出かけていた時のことでした
3号線を先輩の車の助手席に座り、これから街での遊びに期待を膨らませていましたら
なんと目の前に車が飛び出してきました、慌てて先輩が急ブレーキ!!!
しかし間に合わず正面から衝突w(0o0)w 前はグシャリ先輩もハンドルで顔を強打
Kも瞬間に足を上げてダッシュボードで足を強く打ちつけ大惨事となりました。
もちろん病院へ直行、そして医者の診断結果は『骨折』・・・・・
なんと言うことでしょう、とんでもないことになってしまいました(/。-)

そしてこの後には思いもしない事が待っていたのです。

つづく・・・・・




  K-surfin histor #7
当時のKのライフスタイルは下記のとおりであった。
朝登校前に波チェックし学校へ
そして終わったら速攻海へ行きひたすら練習!
ショップに閉店までおり(先輩達の洗礼を受けながら・・・)
閉店後は先輩達とあちらこちらへ出かける。
よく不良だったの?なんて聞かれますが、タバコは吸わないしパイクにも乗れなかった。
まあ進学希望ではなかったのと(床屋への就職が決まっていた)
あまりにも毎日のサーフィンライフが楽しかったし、毎日が新鮮であった。
サーファーもとても個性的なタイプが多く、ショップが違っても互いに
あだ名で呼び合うような間柄がほとんどで、みんなとても仲が良かった。
K自身もそんな多くの先輩達には大変かわいがってもらったし、鍛えられた。

当時の三苫付近の風景も今とは全然違った
現在のRADIX前の道は一車線で、スーパーなども何も無く食料調達も大変! 
新宮もテトラなど1つも入っておらず、冬はとにかく新宮でサーフィンすることが多かった。
堤防も短かったので、うねりが入りやすく波は常時あったような記憶がある。
その代わりムネくらいの波になればゲッティングがハードで
当時のサーファーはみんな新宮でパドルを鍛えられたものです。
そんな何もない三苫だったがサーフショップは2つもあり
その頃からサーファーの集合場所だった。
どちらのショップ兼工場でもサーフボードがオリジナルで製作され
『サーフシティー』『フライングバード』この2ブランド。
ほとんどがオーダーメイドで、今よりもある意味贅沢だったのかもしれない。

さあそんなサーフィンを毎日する生活が骨折により失われる・・その夜はかなり落ち込んだ。
しかし!次の日になっても一向に足が痛くないのです?
骨折をしたことが無かったので、こんなもんかと思っていたのですが
飛んでも跳ねても痛くない?? おかしいと思い他の病院へ行ってみた。
診断は軽い打撲。。。(^x^;) なんと一回目は誤診だったのです。
展開は変わり、またサーフィン可能な生活になったのでありますが
まもなく冬休みから3学期。 そう後わずかで就職が待っておりました。

これはどうにかもっと波乗りがしたいと思ったK
一回目の診断書を学校に提出したのです。
そして登校には難があると伝え、卒業までの3ヶ月間
サーフィンに没頭できる時間を得たのであります。
決して褒められた行為ではありませんでしたが
皆さん同様それ程サーフィンは楽しかった。

いよいよ卒業し社会人になったK
しかし床屋へ就職はしたものの、サーフィンに未練を持ったまま
親の勧めもあって働きだしたものですから、ちっとも身が入らなかった。
そして当たり前ではあるが朝は早いし夜も遅い
休みもままならず、サーフィンなんて全く出来なかった。
そんなある時、『SURFCITY』のオーナーだった中村氏がKの働く床屋に散髪へとやって来た。
Kの顔にはいかにも元気が無く、海に行きたいオーラが漂っておりました。
ちょうどその頃、『SURF CITY』ではスタッフが辞めて人手不足で困っており
新しい働き手を捜していたのです。 そんな矢先ですからお互いの話が一致し
それから数日悩んだ結果、そうある晴れた4月の中旬
就職先を辞め、『SURF CITY』のスタッフとしてスタートしたのであります。

さてそれからは・・・・・・

つづく・・・・




  K-surfin histor #8
しかしその当時のショップ名って夢があると思いませんか?
『サーフシティー』『ハワイアンジュース』『パイナップルハウス』
『アメリカンマーケット』など 時代背景もそうですが
70年代のサーファーがアメリカ(ハワイ)に思いを寄せて
お店をオープンしたのでしょう。
 
そんな『SURF CITY』はいつもみんなの憩いの場所でもあった。
白い建物にはショールームとミーティングルームがわかれており
店のオープンともなると、まるで出勤するかのごとく仲間達が集まってくる。
ミーティングルームでは、毎日年齢に関係なくサーフィン談話が飛び交い
そこにいるだけで色んな情報や知識を得ることが出来た。
 
オープンは11:00、何処のお店のブランドボードに乗っているなんて関係なかった。
みんなに『ミツルさん』の愛称で親しまれていた『中村氏』
オーナー兼シェーパーだった中村氏は、屈指のビックウェーバーでもあった。
宮崎に行こうが、インドネシアに行こうが一目置かれるほどのゴーフォーイット精神!
これにはKもしびれていました。同時に憧れてもいたかな・・・
とてもメローな雰囲気で、毎日みんなに最高の場所を提供してくれた中村氏 。
『SURF CITY』ここでの出会いは色んな人達と知り合いになれ
Kを一層サーフィンの虜にしていきました。
 
仕事は出勤してまずは掃除、常に店番をやりながら工場でのリペア
店と併設してファクトリーもあった。(サーフボード製造工場)
給料は『3万円』安い? なんて事はちっとも考えなかった。
それよりも毎日お店にいることが出来、波乗りを続けられる事に満足していました。
サーフィンを始めて一年も経たないのに、気づけばサーフショップの店員(年齢は15歳)
勝手に転職し、反対されていた親にも毎月生活費を
5千円づつ入れ続けてなんとか認めてもらい
まさに三苫でジュース売りをしたのがきっかけで
人生が大きく波乗りにのまれて行ったのであります。\(。・。・。)/
 
ここまでのkの生活ぶりはちょっとカッコよすぎですが
相変わらず先輩達には・・・
そう毎日店に、今度は一日中いるわけですからそりゃ大変
修行は日々続きましたよ。それに一応は社会に出たのですから
毎日オーナーには怒られっぱなし(>。<)
でもいざ良い波が立てば、なんと店には張り紙一枚で
オーナー愛用の黄色いジープにボードをセットし
鐘崎方面へはよく連れて行ってもらいました。
 
働きだして幾日が経つと、そんなKもやっと原付免許を所得しました。
それからはもう行動範囲の広くなったことといったら(^_^;)
最初に原チャで鐘崎に行ったときなどは
コーラの瓶にガソリンの予備を持っていったものです。(燃費が良い事をしらずに)
 
夏ともなれば、宮崎にも顔が広かった『中村氏』に連れられて
ローカルの方々とよくリーフに入ることも多かった。
しかしこれが波が大きなポイントばかりで怖くてたまらなく
でもOKをもらわないと上がれなかったから大変!!
ビビって波に乗らなかったりすれば
沖からパワーコードを外されて「泳いで帰れ!」など・・
まあ今の時代ではありえないかな・・・ 
初心者が他県のリーフでピークからテイクオフできるなんて。
 
そして季節は秋を迎える
先輩達の厳しい教えのもと少しは波乗りが上達したKは
2回目のコンテストシーズンに入りました。
今度はショップスタッフとして!
でもそれは厳しさも兼ね備えていたのです・・・・・・
 
つづく・・・




  K-surfin histor #9
昨年までは波乗りを始めて数ヶ月のビギナー
それも中学生ですから それなりにみんなに持てはやされたものです
でも今度はね・・・勢いのあるサーフショップのスタッフですから
かなりのプレッシャーでもあったわけです。
 
当時86年 kはBクラスでの出場
一つランクアップしたクラスでのコンテストです(初年度はCクラス)
スペシャルクラスは唐津と西の(BADZ)の面々が上位をしめており
今のように東強しの図式はまだ無かった。
 
そして成績は Bクラスではあるものの 中村オーナーや先輩達の教えのもと
何度か入賞することが出来ました。 
でも入賞ですから優勝ではないわけで けっして褒められたりはしませんでした
やはり大会ってそんなもので 立場かわれば周りの目や求められる順位も変わる
でもそのプレッシャーが短期間で体にコンテストの雰囲気を馴染ませ
上達のプラスになったような気がします
 
その頃は大学生も福岡サーフィンシーンを盛り上げていました
ちょうどベビーブーム世代ですから 学生も今より全然人数が多く
各大学のサーフィン部も活動熱心で 宮崎合宿やコンテスト参加なども盛んであり
そんな学生主催の学連サーフィン大会も 人気イベントの一つでありました
九産大、福大、西南、第一経済、教育大、東海大など
他にもありましたが 各大学ともに団結力が強く しのぎをけずって戦っていました
学生チャンピオンになれば やはり注目され 女性にもモテたりしたようです
当時は女性サーファーなどは少なく 彼氏が学生であれば フリーサーフィンも見に来るし
大会は応援の場所 寒い冬は読書か編み物が助手席で待つ彼女の定番
中には彼女から キルティングで手作りのボードケースを作ってもらったりなど
今よりもっと関東が遠く感じられ 福岡なりの独立したサーフィン文化がありました。
 
そしてみんなハングリーでしたね 朝一からサーフィンし 大学の合間をみて夕方まで波乗り
夜は遅くまでアルバイト 当時の学生のバイトは『バー』『居酒屋』『ディスコ』が多く
一日中忙しくしていました 留年も多かったような・・・
今現在もその当時の大学生だった方達は
現役でバリバリやっておりますよ(^^)
しかし体型とキレは・・・・それなりに
 
さてその年は何度か入賞をしまして
一応はコンペティターとしての形が出来たシーズンとなりました 
季節も12月になり 寒くなると工場仕事は辛かったですね
これは精神的には まだ全然ものになっていませんKでしたから
時には嫌になることも でも波乗り&先輩達との楽しい時間
それが気持ちを継続するには とても役に立っていました
やはり波乗りは 暖かい時期って波があろうが無かろうが なんだか楽しいですよね
その反面冬が近づけば 店に来る客も少なくなり
仕事も暇になるし寂しいものです これは季節物商売なら当然なのですが
当時のサーフショップは特にそう感じさせます。
 
そんなまだ寒い2月のある時
まあ色々ありまして 『SURF CITY』を辞めることになりました
16歳でサーフショップ勤務 サーフィンも適度に出来 
給料は安くとも 別に多くの不満も無かったのですが
サーフィンを知れば知るほど なんだか三苫界隈とは違ったもっと外を見たくなるし
そんな日々が続くと 同じような毎日が過ぎていくのがどうしても・・・
まあ年齢も16歳 知りあうコアなサーファーから聞かされる話は
一所にいるのが窮屈に感じたのです
 
でも辞めたその日からは しばらく何もせず自由に波乗りをやろうとしたのですが
中村オーナーに仕事を見つけるまではと言われ 
ボードを没収されてしまいました(後に思うとこれは親切心ですね)
即座にバイト面接 ファミレスでバイトを決め
今度はフリーターをしながら 本格的にサーフィンのみの生活に入ったのです
これが・・87年の春でした♪
 
つづく・・・




  K-surfin histor #10
その当時は今のように DVDやケーブルテレビは無かったので
サーフィンの映像を 簡単に見る事は出来なかった。
専門雑誌は何社かはありましたが
映像(VIDEO)は 古いスローテンポなものが大半で
プロコンテストの映像などは 年に2度千葉や新島で行われていた
ASP丸井プロを(今年のQSプロ)東京に友人がいる人から録画をしてもらい
送ってもらうしか 手に入れて見ることは出来ませんでした。(東京TVのみ放映)
そのビデオが届いた日などは みんなでショップに集合し
食い入るように見入ったものです。
 
そんな情報不足な時代ですから
周りの誰かが海外サーフトリップに行った時などは
そこで起こったエピソードや 現地で会った有名なプロの話など
みんな興味深く聞き 頭の中で空想し
サーフィン談話はよく盛り上がりをみせていました。
 
日本人プロも 当時は今より地方では憧れの存在
たまに営業や大会で 福岡にプロが来るとの情報があれば
大勢で見に行ったりもしました。
Kも年齢のわりには 昔のサーフィンのことをよく知っているかもしれない
それは『SURF CITY』に大量に揃っていた サーフィン雑誌のバックナンバーを
毎日隅から隅まで見ていた事が 歴史を知るには十分役にたちました。
サーフィン雑誌のバックナッバーは 87年より過去5年分はあっような・・・
それと福岡のサーフィンの歴史を記録するような 数々の写真など
今思えばまさに リアルなサーフィン資料館のようなお店でした。
 
さあそんな場所『SURF CITY』から離れ
一サーファーとして活動しようと バイトも始めましたが
家の事情で住まいを引越したのをきっかけに 
今度はコンビニでの仕事に変わりました
このバイトは 大変サーフィンをする環境には良かった
仕事の時間は夕方からなので たっぷり海へは入れるし
廃棄になるお弁当やパンをもらえるから
海に行った時の食費はかからない
バイト代もそこそこ稼げたし\(^0^)/
シフトも同年代のバイト仲間と話し合い 自由に決めることができた。
夏には宮崎へもよく出かけ 大会にも出場した
福岡でも原チャリで海へ行きまくり
とにかく精力的にサーフィンに取り組んだ時期でした。
忘れもしないのが 今ではポイントとして消滅してしまった
宮崎は日向の耳川ポイント! ここの波は最高だった
その耳川ポイントを見下ろす場所にあったサーフショップ
『サマーブリーズ』にはオーナーの疋田氏
そして当時宮崎日向が誇るスーパースター上米来氏(カンメラ)など 
とにかくサーフィンが超上手い人達が 所属していたショップだった。
オーナーの疋田さんは(当時30代後半)当時から抜群に波乗り上手かった
あの有名なポイント『レイナ』を初めてサーフィンし 名付親でもある
娘さんの名前レイナからとって ポイント名をつけたのです。
 
ある7月の宮崎に行った日の事でした
いつものように耳川でサーフィンをしていましたら
Kもそれなりには上達していたので ピークから遠慮なく乗っていました
そこに地元の人ではないけれど?(熊本ナンバーのトラック)
ガンガンKに海の中でチャージをかけてくるサーファーがいました(20〜22歳ぐらい?)
サーフボードを見ると『TSSC』のマークが サマーブリーズのメンバーか?
耳川には このサーフボードブランドTSSCが多く
サマーブリーズの看板ブランドでもあった。
その後一ラウンドを終え 海から上がって休憩をしていると 
先程海でチャージをかけてきたサーファーが 恐い顔をしてKに向かって来る!?
 
さて・・・・\(>o<)/やばい・・・




  K-surfin histor #11
宮崎では 当時『金ヶ浜オープン』と言う大会があった
kが初めて出た福岡以外の大会も この大会です。
87年の同大会では kはオープンクラスでセミファイナル敗退
しかしこの大会のスペシャルクラスは凄かった。
宮崎ではアマチュアだが 日向に『上米良氏』
延岡出身で 現在の木崎浜をホームグランドにしていた『山口 千春』
この2名のサーファーがスペシャルクラスの見せ場だった。
上米良氏は アマチュアだったがJPSAのプロアマでも
9位に入賞するほどの実力 Kが初めて見た時は
あまりのサーフィンの上手さに 見惚れてしまうほど・・
対する山口千春はまさにパワーサーフィン 全日本でも入賞し
その年の秋に行われた プロトライアルで合格した。
この二人の戦いはとても記憶に残っている まさに名勝負
そして山口千春プロとの出会いも この時が初めてだった。
 
さて 前回の耳川ポイントでのお話です
恐い顔をして歩み寄ってきたサーファーは 
髪の色は金髪 顔も真っ黒で 年齢は20代ぐらい・・
殴られるのか? 文句を言われるのか?
一言めに 「お前!」 一呼吸あったような記憶がある
「どこから来たんか?」「年はいくつや〜?」そう聞かれた
後に聞いたが やはりむかついて歩み寄ってきたらしいw(0o0)w
まあ自分なりに自己紹介をしまして 少しはムードも和らいできました
彼は 宮崎に今現在もありますが チキン南蛮がとても美味しいレストラン
『ポパイ』で働きながら 波乗りをしている熊本出身の26歳のサーファー
あだ名は店長 何やら熊本でも有名な美容師だったが ドロップアウトしまして
宮崎に移り住んだのです。 美容室の店長だったから あだ名が店長!
そして彼は小倉ヶ浜で 当時大阪や熊本などから集まったメンバーで住居を借り 
共同生活をしていた通称『アニマルハウス』の住人でもあり その時は責任者だった
「お前サーフィン上手くなりたいんか?」 と聞かれ
「うまくなりたいし プロにもなりたいです」サーフィンが超楽しくなっていた時期ですから
純粋にそう言葉で伝えたKであります(^。^* )
「じゃあ 俺らの家に来いよ」なんて言われまして 連絡先を聞いて福岡へ帰ったのです
それからは 波乗りを毎日しながらも『アニマルハウス』の事が頭から離れず
ある時 『ポパイ』に電話をしまして 通称店長さんに 
「考えたのですが 宮崎に住みたいから 行ってもいいですか」そう尋ね 
店長からは心良く了承してもらいました。
 
その後は なにかサーフィンの道が開けたような気がしまして
秋の大会はオープンクラスではありますが 絶好調!
福岡エリアの大会で何度か優勝し
最後は当時からコンペティターの登竜門でもありました
唐津の『立神杯』でオープンクラス優勝をしまして 
Kなりの福岡最後でのコンテスト活動を終えました
その大会には スペシャルクラスに 宮崎からも『山口千春』など
数多くの選手も参加し なかなか盛り上った大会だった事を覚えています
 
そして忘れもしない 17歳の11月10日
愛車の原チャリを宅急便で送り
先輩達からは 送別会までしてもらい
宮崎へ特急列車で旅立ったのであります♪
 
つづく・・・




  K-surfin histor #12
冬初の11月中旬 宮崎は温暖な場所なので海水も暖かい 
そして今とは風景も全然違った
小倉ヶ浜も 整備された駐車場もなく
砂浜の端に設けられた 小さなスペースに車を停めるしかなかった
海も平日ならガラガラで 週末でも地元のサーファーぐらいしか
冬の宮崎に訪れる人はいない
 
この時期に入るポイントは やはり小倉ヶ浜
そして美々津ポイントだった
サーフショップも『サマーブリーズ』がメインで
その他 日向周辺の海岸沿いには
お店は無かったように記憶している
 
そんな11月10日に 特急列車で福岡を出発したKですが
特急とは言うものの 所要時間は7時間ほど・・・
門司で乗り換え 長い道のりでした
たしか日向駅に着いた時間は お昼すぎ
改札口を出ると 4名のサーファーが出迎えてくれた
ここ日向にKを誘ってくれた『アニマルハウス』の代表管理人 通称店長26歳
彼で代表は3代目らしく それだけ短くとも歴史のある『アニマルハウス』
そして 顔がジュゴンにそっくりなの『ジュゴン君』 22歳
身長が152CMと小柄だが サーフィンのセンスが抜群だった『とっちん君』24歳
男前で 歳が一番近い『江尻君』18歳
店長は熊本出身だが あとのみんなは全員大阪からの移住組み
Kの記憶では一番多い時で 2LDKの一軒家に13名が住んでいたこともあった
まずは家を案内してもらい 案の定・・・すごい家でした
決まりは月に生活費1万円を入れる これで家賃、光熱費、米などをまかなう
しかし冷蔵庫の自分の持ち物には名前を書き マジックで減った分量を記入するほど
ある意味 サバイバルな家でした。 自分の服もちゃんと置いてないと誰かが着ていたり
まさにそこは『アニマルハウス』なのです
 
夕方にはみんな各自のアルバイト先に出て行く
着いた日も早々に みんな出かける準備をし
Kにローカル市外地図を書いてくれた
初日だが このままでは一人・・
送ってあった原チャで 夕方から街にバイト先を探しに行きました
そうは言っても知らない土地 とりあえず駅の近くを歩いてはみたけれど
どこでバイト募集をしているのかもわからない
よし!と覚悟を決め ある炉辺焼のお店に入りました
間口は狭いが 中に入ると広いお店で
カウンターの中には威勢のいい 板さんがズラリ
「いらっしゃい!」の呼びかけに「アルバイト募集してますか」と切り返し
ちょっと怖そうな親方風のおじさんが出てきました
「兄ちゃんどこから来たの」と聞かれ「福岡から今日来ました サーフィンをする為に」
親方はすぐに 「いいよ 自給はいくらほしい」 即座に「500円ぐらいは」っと希望を伝え
「じゃあ明日からおいで」 たしかこんなやり取りだったと思いますが
飛び込みで入ったお店でいきなりバイト先が決定
後に知るのですが このお店の名前は『八幡』(ハチマン)と呼び 日向でも評判の人気店
いつも予約がいっぱいで 『地鶏の炭火焼』が名物な 大繁盛しているお店でした
親方も器の大きな 人望の厚い人で
宮崎にいる間は本当に可愛がってもらった
バイトも決まり 夜にはみんなに報告して 宮崎での初日が終了しました
 
そして翌日 移住組みの仲間入りをしたKは 日向の海メンバーに加わる為に
まずは 店長に『サマーブリーズ』に連れて行かれ
そこで疋田さんを紹介してもらった 以前も紹介しました疋田さんは
関西出身であるが 宮崎に移住し 波乗りも上手いが
西日本のサーフィン関係者とのパイプも太かった
やはり この時代はまず新しい土地に行ったら
そこの顔と言われる人に挨拶をする こういう順番は当たり前だった
そうじゃないと海でいい波には乗れない
 
そんな感じで 宮崎ライフは順調にスタートしたのであります♪
 
つづく・・・




  K-surfin histor #13
宮崎での生活が始まったKですが
ある時 疋田さんに呼ばれました
一応中古ライダーだが ボードを貸出してくれるとのお話
正直かなり嬉しかった   あのサマーブリーズの
疋田さんに言われたのだから 嬉しくないはずがない
これでサーフィンも果然やる気になったK
 
生活パターンはこうだった
朝起きてまずは みんな計3台で海に出かける
だいたい朝一は 美々津ポイント
波が小さければお倉ケ浜 この二つのポイントを交互に
入るのが 11月頃からの波乗りパターンです
夕方からは各自バイトに出かけ
Kは共同生活をしながら サーフィンライフを順調におくった
ただ海は寂しかったですね 日曜以外は
だいたい自分達と ローカルが数人
波はあるものの ちょっと刺激足らずな日々でした
やはり宮崎は 雰囲気や波が盛り上がるのは夏!
 
そんな中 ちょくちょくあの山口千春プロを海で見かけるようになった
彼のスポンサーは『GAPウエットスーツ』『ブレイクアウェイサーフボード』
その関係から 延岡出身ながら日南(青島)に住んでいた
しかしスポンサーが変わるのを機会に また延岡に戻って来ることになり
日向周辺にも出没するようになったのです
彼は年は3歳上 身長が180近くの大柄で 車は黒いサーファー使用のトラック
サーフィンはパワーサーフィン ちょっとスリムなゴリラ風といった感じでした
そして海でアニマルメンバーとも交流するようになり 気づけばアニマルハウスへも
毎日遊びに来るようになった
プロサーファーですから Kも毎日恐縮するわけで
なんでも言う事をきくし いつしか師弟関係のようになりました
この頃だったか 大阪からも『東海次郎』と言うサーファーも
アニマルハウスのメンバーになっった
彼もその後 アマチュアではかなり名前を売ったサーファーです
宮崎にずっと住み着き 今は大阪に帰ってしまったが
波乗りがうまく プロに近い存在でもあった
 
さあそんな 山口千春との師弟関係になったK
これが本当に大変だった・・・・ 
可愛がってくれているのか 鍛えられているのか
それとも・・・なんだろう とにかく辛い修行でした
大酒飲みだし 豪快な彼には 言うことに従っていくのもやっと
あまり波乗りについては 教えてもらっえなかった記憶がある
 
そしてある時だが 彼は春から千葉に行ってしまうことになった
そこでKに「お前も一緒に行かないか?」そう言われました
住みつきだして4ヶ月あまり・・・
また数ヵ月後には今度は千葉へのお誘い
何日か考えた まだ宮崎の本当のシーズンも味わっていない
それにバイトも順調だし 今の環境にも満足
でも答えは「YES」 なぜならもっと波乗りが上手くなりたかったし
中央のサーフィンを生で毎日見たかった
 
そんなこんなで 一時期は就職までも考えた
あの『八幡』の大将にも 事情を説明し
気持よくOKをもらった アニマルハウスのメンバーとの別れも
寂しかったが 発展的な旅立ちなので 
ここは前向きにことを進めることにした
準備と言っても 荷物は大きなバック一つと大したことはない
4月に行われる『宮崎サーフィンクラッシック』の大会が終われば
いよいよ千葉への旅立ちです
この大会はアマチュアクラスとプロクラスがあり
アマチュアでファイナルに行けば プロのコンテストにも出場できた
 
そして山口千春プロと共に 会場の曽山寺(木崎浜)に向かったのです♪
 
つづく・・・




  K-surfin histor #14
一年のうちで 宮崎が一番盛り上がる大会『宮崎サーフィンクラッシック
Kも初めて見る プロのコンテストだった
その当時のJPSAグランドチャンピオンと言えば 過去誰も成し遂げたことのない
6年連続チャンピオンを獲得した『久我孝雄
現在の木崎浜(当時は曽山寺)は多くのギャラリーと選手で熱気がムンムン
今よりもプロコンはあきらかに人気イベントの一つでした
 
肝心の成績は Kはアマチュアクラス ラウンド3敗退
山口千春はプロクラス ラウンド2敗退
ともに成績は振るわなかったが
ファイナルまで見ごたえのある試合でした
なんせ雑誌の中でしか見た事がないプロが
そこらじゅうにいるわけですから
そりゃー興奮したものです
試合の内容などは 今とあまり変わらないが
その頃は ブランドで力があるチームなどがあり
そこに所属していると ジャッジも良い評価をしてくれるとか・・
噂だったかもしれませんが しがらみが感じられることもあった
その時の千春君のサーフボードスポンサーは
『ブルースピリット』今はもう無くなってしまったが
東京に工場あり 当時は勢いのあるブランドでした
そのブランドを頼り 二人で千葉へ向かうことになっていた
 
そして季節は4月 『アニマルハウス』に一度戻り
荷造りをしてから 千春君の車に全て積み込み
日向のフェリー乗り場から 経由地の大阪へ
フェリーで出発したのです♪




  K-surfin histor #15
フェリーで最初に着いた場所は大阪でした
アニマルハウス時代の ルームメイトに一晩お世話になり
大阪から いざ関東へ高速での旅の始まりです
まず目指すは 静岡は御前崎
ここに 千春君が以前お世話になった
サーフショップ 『オーシャンブルバード』の前島プロに会いに行った
前島プロは もうプロ活動からは一線引いてはいたものの
ビックウェーバーで 大変人の良い方でした
そして 御前崎で一ラウンドし その日は前島プロの家に泊めていただき
今度は一路 湘南へ向かったのです
湘南では 千春君が出場する JPSA第二戦が行われることになってました
しかし 湘南に着いた時には我等の財布は・・・
ここは一発 二人でパチンコに出向き 運良く数日の生活費を稼いだ記憶があります^^
さて 湘南では全くあてもなく お金もお互いあまり無かったので
宿をどうするかと考えていた時に 偶然目の前に・・・
Kがサーフシティー時代に 東京から福岡に引越しで一時住んでいた
通称「まっちゃん」なる 人物が自転車で通り過ぎようとしてました
思わず呼び止め 相手もかなりビックリしてましたが
数日の宿泊予約をとりつけ 湘南滞在をなんとか可能にしました
さて 試合が始まりましたが 肝心の千春君は途中敗退
でも ツアーを追いながら見るプロコンテストはとても刺激的で
プロの素顔を垣間見たり その中でフリーサフィンもしますから
期間は短くとも 気分はプロ並み 良い練習期間になりました

湘南での滞在も一週間ほど過ぎ
最終目的地 千葉へ向かうことになりました〜♪





  K-surfin histor #16
湘南での滞在は1週間でしたが
波乗りのメッカ やはり雰囲気は地方から出てきたKにとって
刺激のある滞在期間となりました。
海沿いには サーフショップが並び 自転車で海に来るサーファーも多く
なにより マクドナルドにウエットOKコーナーがあるのは
カルチャーショック まさに波乗りに歴史を感じさせる場所でした
そんな湘南を後にし 鎌倉からフェリー乗り場がある金谷へ行き
フェリーで木更津渡り ようやく千葉へと上陸したのはちょうど
ゴールンデンウィーク前・・・ 宮崎を出て2週間か過ぎた頃
まずは鴨川に着き 今では幻のポイント「赤堤」に入りました
ここは 公共工事の影響で波乗りが出来なくりましたが
Kはギリギリ入るのに成功 長い千葉での生活の中でも
最初で最後の赤堤サーフィン その時に「関屋プロ」とも遭遇
まあ今思えば その後・・福岡でみたいな 運命的な瞬間ですね
波はロングライド可能で 技も入れ放題の良い波
軽く1ラウンドをこなし Kの歴史に赤堤サーフィンを刻む ヘ(^0^)ノ

そして次に向かったのは 千春君のスポンサー「ブルースピリット」
のクラブ員が保有する 御宿のクラブハウスへ移動
今もですが この当時は東京付近のサーフショップは
ほとんどが千葉の海沿いにクラブハウスを借り
お店の会員になると 月小額のお金でクラブハウスを使うことができた
御宿といえば 日本最大ナンパ宿 「新宿」「原宿」「御宿」っで有名!
夜にもなると 若者があちらこちらから現われ
そりゃーすごい光景です ちなみにこれは夏限定で
Kが行ったGWには サーファー以外は誰もおらず
しかし海は大変な込み具合でした

クラブハススには 通称「ブルスピ」のメンバーで大賑わい
GWですから毎日が大勢での共同生活
明るい時間は みんなでサーフィン
夜ともなれば酒盛り 関東のサーファーとの交流が続きました
さて そんな日も数日が過ぎ これからのことを考えていますと
そのブルスピのスタッフの方から 思わぬお誘いが・・・・

つづく・・・・




  K-surfin histor #17
それはある晩のことでした
御宿でのクラフハウス生活も早10日あまり
ゴールデンウィークを明けて 第2週目の週末でした
ブルスピのスタッフだった通称オサル君が kに「これからどうするの?」
そう聞いたのです 正直まだ何にも決まっておらず
一応千春君と 一宮にあるクラブハウス(これはブルスピの会社所有)
に移ることは決まっていたのですが kはライダーでもなく
そこに長く居座るのも出来ない立場ですから
さて どうしたもんかと考えておりました・・・・
目標はプロサーファー だけどどうやって?
仕事は飲食店が希望で(食事にありつけるから) 
後は宮崎のような生活が出来ると 我勝手に思っていました
しかしここは関東 九州のように誰もがフレンドリーに接してくれるわけではない
そうすると オサル君が「一宮にリバージュってサーフショップが 働く人募集してるよ」
こう言うのです でも・・・・・サーフショップ=安い給与+サーフィンと仕事の切替
など kは過去のトラウマから ちょっと考えます そう返事をしました
一週間考え とりあえずそこのオーナーに会う事になったのです
荷物をまとめ 御宿から一宮へ移動し 
まずブルスピのクラブハウスへ引越しです
初めて見た 一宮の風景は 何処のポイントもうまい人ばかり
御宿でもそうでしたが ファッションもいかにもサーファーと言わんばかりの格好
福岡・宮崎は その当時まだサーフファッションも根付いておらず
かなり新鮮で やはりサーフィンをする為に住む場所なんだなっと感じとれました
さあ いよいよ面接です オーナーの名前は「高井良」さん
まだ27歳で 長身に二枚目 正直カッコいいな〜 これが第一印象でした
まず条件を聞くと 給料は10万程度 そしてクラブハウスに住み込みOKとの説明が
ヽ(。・ー・。)ノ正直 Kは過去も月に7万以上を稼いだことは一度もなく
今回は過去のショップ給与3倍以上!!! そして住み込みもOK
考えるも何も その時のKの財布の中身は・・・たしか後700円(/。・)
もう迷いゼロ お願いしますの挨拶で 
いよいよ Kの千葉での移住生活がスタートしたのです〜♪
それもまた サーフショップスタッフとして
 
つづく・・・・・




  K-surfin histor #18
時は1988年5月 千葉も盛り上がりを見せ始める季節です
ショップオープンは9:00 当然10分前には出勤せねばならず
毎日は規則正しい生活でのスタートです
千葉の朝は早い 夜明けも5:00前から
朝の一ラウンドは 夜明け〜8:00くらいまで
朝食を済ませ出勤です
周りの店を含め 土日や夏季はオープンがAM5:00なんてお店もある
千葉の海沿いのショップユーザーは 東京・千葉市内・埼玉
生粋の地元サーファーは1割にも満たなく
通いのお客様で成り立っているのです
海沿いには 各ショップのクラブハウスが沢山あり
週末の夜は 何処もかしこも飲み会だったような記憶がある
 
その頃のサーファーのファッションは・・・
頭は茶髪(脱色かも?) 時計はダグホイヤー
20代中盤の方々は何故かセカンドバックを所持し
ポロシャツの襟を立て 派手なトランクスを穿いていた
それか・・ 長めのトランクスに ピタっとしたタンクトップ
今見るとイヤン(/o\)ハズカシ
そして欠かせないアイテムに!金のネックレス★
絶対18金で 焼けた肌にキラリと光るネックレスがお約束だった 
千葉に出て来たは その金のネックレスが
ほしゅーて ほしゅーて たまらなかった(☆。☆)
そんな時太東ポイントで一ラウンドを終え
車に戻ろうとした時 砂浜になにやらキラキラと光る物が見えた
色はゴールド! これはもしや・・・・ おー金のネックレスではありませんか
周りを見渡しても 落とし主らしき人もおらず
空を見上げ これは貧しいkに神が思し召しを(ノ。・、)
もう時効です そうkは労せずして 金のネックレスサーファーへ
バージョンアップしたのでした〜♪ 疑惑のネックレス↓
 ↑ 若い時はいい体してたのだが・・・

そんな気分上々なkでしたが
千葉、それも志田下をホームグラウンドにするわけですから
かなりの洗礼を受ける毎日
今は一般化しましたが 当時の志田下は
まさにサーフィン道場!
入っているのはプロ・トップアマチュア・サーフィンファクトリーのメンバーばかり
住みつきに来る者も多かったが 冬になれば去る者も多く
来たばかりのkは いつ帰るか分からない一サーファーとしか見られず
海の中でもガンガン前乗りばかりされる毎日が続きました
挨拶しても 半数は目が合うだけで終わり
当然良い波なんて回っても来なかった
でも海の中で見るサーファーのパフォーマンスは
まさにビデオの世界 多いときで20名くらいの
プロが毎日練習しているのですから
見る目や 波乗り自体も その場にいるだけで鍛えられいきました
kはとにかく 志田下にはまった
ここで良い波に乗れるようになりたいと思い
来る日来る日も通い続けたのでありました
 
つづく〜
 
ps 8年間住んでいて kは一年通して
  志田下に入った回数は誰にも負けなったような・・・ 




  K-surfin histor #19
千葉のそれも名高いサーフィン道場
志田下ポイント』に一番近いサーフショップだった
リバージュサーフに勤務しながらコンテストにも出場していました
 ←当時のリバージュ
千葉では季節関係なく波が豊富な事もあり
毎週のように各ポイントで大会が開催され
ショップライダーからトップアマまでがエントリーし
常に大会は多くの選手で盛り上がっていました
やはり業界関係者も大会には多く駆けつけますので
大会に出てアマチュアでもスポンサー探しをする!
これがコンペの常識だったように覚えています

千葉入門初年度のKはオープンクラスでエントリー
その頃から千葉地区でのスペシャルクラスは
プロアマ常連のメンバーや全日本入賞者などが大半で
福岡から出て来たばかりのKはまだまだ練習が必要でした
 
千葉でのコンテストは初年度は入賞止まり
でも近辺ではJPSAのプロコンからASPまでが開催される場所ですから
とにかく得られる刺激は絶大なものがありました
大会時期になるとお店には有名ASPサーファーが遊びに来たり
 ←若い頃のテイラーやサニー
会場以外の場所でも超度級のセッションだらけ
このASP(当時の丸井プロ)部原が終れば一揆に秋モード
そして季節も冬になろうかとしたある時・・・
九州から一緒に出てきた山口プロがとある事情から突然千葉を離れると!
当時のKは友人も少しづつ増えてはきたものの
なんせ冬に近づくに連れて周りの季節住み着き組も消え始め
寒冷地な志田下方面は人も減り
温暖な鴨川や和田周辺へ東京サーファーも移動を始めます
ですから当然そりゃー寂しい・・・・(ノ_・、)
普通に行っていれば高校生
慣れてはきたものの関東の空気は九州とは違うんですよね〜
それに輪を掛け一緒に働いていたスタッフも実家に帰ると・・
気付けば寒〜いクラブハウスには一人だけ
作りもプレハブですから本当に寒い
←本当に住んでいたプレハブハウス
しかし冬になると唯一の楽しみが!
それはどの土地に行ってもあるお約束のサーファ仕立てのx・masparty
このKが働いていた『リバージュサーフ』のオーナーは
もともとアパレル会社の営業を得て脱サラしたちょっと派手好きなお方
だからパーティーを行う場所も千葉の田舎なお店なのに(サーフィンでは都会)
『東京は六本木!』福岡から千葉に出てきたKはそりゃ〜(^0^)ノ興奮
会場は当時超流行った『マハラジャ』か『キング&クイーン
マハラジャは福岡にもあったので行った人もいるでしょう
知らない人は今東京でまた復活しているので
ここを見てみて↓雰囲気は伝わるかな?

http://k-q2005.com/
服装もフォーマルでジーンズなんてお断り
スーツなんて持っていないKは
当然給料を貯めて千葉は船橋の『ララポート』へ買いに行ったものです
←今じゃ結婚式でもこんな格好はしませんね・
そして始まったパーティーは凄かった
参加人数も400名近くはいましたね
←これは渋谷のJトリップバーでのPARTY
男女問わずフルフォーマル・・・
当時は女性サーファーも少なく
来る女性陣は男性陣サーファーの友達やパーティー好きな面々
今思えば超合コンパーティーのような雰囲気もあり
お立ち台なんてのもありましたから
いや〜とにかく盛り上がりは凄かったですね
まあ色んな逸話もありました
あんな事もこんな事も・・
ちょっとココでは言えませんが(^o^* )
 
そして12月の行事も終え
千葉に来て初めての年越しを迎えるのでありました
 
つづく・・・・




  K-surfin histor #20
かなりおサボりしており
気がつけば2年近く凍結


そろそろと思い
一気に仕上げです

千葉での生活は7年間
7年ですよ!!!!!!!!!
中級者だった私くしも
プロアマなんてのにも出場したり
プロトライアルも受けたり

日本屈指のポイント志田下の波の音を聞きながら
生活できる環境にいたので
そりゃ〜年月に見合った
上達もありました

しかし大会とお仕事
この両立はナカナカ大変で
お金も貯まらず
オープンから閉店までサーフショップ
夜はコンビニやパチスロ店
そしてカフェでの深夜までの勤務など
色々お仕事もしました

そんな中
今のJUSTICEサーフボード社長の南澤氏と
親しくさせてもらうようになり
一時はRADIXも超ビーチフロントの
目の前にお店が・・・・
そんなお話もありましたね
ここで私くしも店長として
一生骨を埋めるつもりで
色々と模索していた23歳

しかし急遽福岡へ戻る事を決意し!
平成15年12月にお店を退職
一時は東京で出稼ぎに勤しみ
ビル解体や内装屋
東京通いサーファーも体験4ヶ月ですけど

そして平成16年4月に福岡へ帰還!
お店を始める為に戻って来たのですが
既に関東はサーフィンブーム到来!
私くしの頭の中もサーフィン銀座状態
つまり・・・・・頭の中は関東のまま!
なので福岡へ帰ってきた時は
雑誌『FINE』もどこの書店にも
置いてあるわけでは無く
街にもサーファーはあまりおらず
まさに浦島太郎でございました

お店を始めるには色々ありましたね
もちろんお金もですが場所